「リア王」:シェイクスピア[感想]

読書

はじめに


今回はシェイクスピアのリア王について書きたいと思います。リア王といえばシェイクスピア四大悲劇の1つとして知られています。


悲劇、バットエンドの作品は小説に限らず様々な創作物において多くあります。

これは僕🍏の持論ですが、我々は喜劇よりも悲劇から学べる事が多いのではないのでしょうか?普段私達はこの複雑な社会を生き抜く為に多くの仮面を使い分けて生活しています。

しかし悲劇、苦境の中に立った時にこその人間本来の性質が滲み出てくると思うのです。

新体制と旧体制


リア王の最大のテーマは「新体制と旧体制」です。

どんな時代のどんな組織においても新陳代謝が起こり、世代交代が起こります。


リア王は権力と国を三姉妹へ譲りそこから「新体制vs旧体制」の対立、そして悲劇が始まります。

若い頃このリア王を読んだとき僕🍏は引き際が拙劣なリア王と、世渡りが下手なコーディリア、自身の損得でしか物を考えないゴネリル、リーガンとその取り巻きを並べて見たときに、リア王をはじめとした旧体制側に問題が有るのではないだろうか、と思いながら読んだのを覚えています。

そして自分が若いとは云えなくなった年に改めてこのリア王を読んだときに、僕🍏はもっと広い意味で人間が作り出す組織について考えながらこの本について考えるようになりました。

新体制と旧体制との違い


リア王における「新体制vs旧体制」を言い換えるとするならば「封建的vs民主的」の構図が見える気がします。

シェイクスピアの素晴らしさはその言葉のチョイスは勿論ですが、登場人物を通してその物語で表現したかったものを上手く表現しているところです。


・[封建制]:国王に主権があり臣下との間に主従関係があるもの
・[民主的]:主権は国民一人一人に平等にあるもの


君主に見放されても君主に奉公し続けるケント、父親に見放されても父親を愛し続けるコーディリア、エドガー。

奉公・慈愛という概念はなく、自らの損得勘定のみで動くエドマンドとゴネリル、リーガン。物語を通してものの考え方の違いが異なるこの両グループの対立。そして悲劇。

日本の義務教育を受けてそれなりに友達や部活動を通して、組織に所属してきた人達で、人間としての道徳を理解できる人であればリア王を読んだときに「悪いのは自分の損得勘定でしか動かない新体制側で、コーディリア、エドガーは良い人達だよね」

っていう感想は簡単に抱けますが、もう一歩踏み込んで、私たちの社会と照らし合わせてみましょう。

リア王を読んで今を生きる


僕🍏も小さい頃から司馬遼太郎の作品を読み漁り、自己犠牲や封建制でみられる主従関係の美しさを理解しているつもりです。

ケントとコーディリア、エドガーを見たときに彼等の考え方、生き方を見た時に純粋にかっこいいな、美しいなと思いました。ただ同時に現代だと苦労するだろうなと思いました。

今の日本は民主主義をとっています。主権は国民にあり国王による専制は行われていません。

その代わり自身の損得勘定で動いている人が多いように思います。

自分の欲望をストレートに通してそこを着地にもっていくのは非常に難しいので、我々は多くの仮面を使い分けてなんとか人や組織の顔色を伺い、迂回しながら自分の持っていきたい方向へ進めようとします。

ケントとコーディリア、エドガーの生き方はカッコいいです。美しいです。ただ仮面を被れない不器用な人間はこの現代では生き残ることはできません。

かといってエドマンドとゴネリル、リーガンのような多くの仮面をかぶり人間として持つべき心の美しさが皆無な人間が笑えてしまうような社会は滅ぶべきだと思います。

このバランスをどういった割合にするべきなのかが本当に難しいです。所属する組織でも割合が違うだろうし、人それぞれのキャラクターにもよるだろうし本当に今の現代社会の難易度はどうかしていると思います。


同僚、友人、家族にも気を使って生きて生きなければならない社会の中で、心の底から協力関係が築けて仮面を外せれる人を見つけるのが大切なのでしょう。

人間は欲望を捨てることができない動物です。

なので、我々は何かを軸にして規律を保つしかないのです。

それが宗教であり、法律であり、お金であり、組織だと思います。

もう若くはない自分が改めてリア王について考え、そして新体制、旧体制どちらの良いところ、悪いとこも理解したうえで
(自分はどうなの)と自問し考えさせられました。改めて人間って面白くもあり、怖い動物だと思いましたが一番怖いのではこれを1600年前後に書いたシェイクスピア。
彼の先見性はずば抜けています。

「もっと落ちるかもしれない。どん底だといえるあいだはまだどん底じゃない」ーエドガー

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