はじめに
TBSの安住紳一郎アナウンサーが番組の特別講義で、『走れメロス』を題材にした面白い解説をしていたのをご存知でしょうか。
作中の「沈んでゆく太陽の十倍もはやく走った」というテキストから速度を計算し、「メロスは”マッハ11″で走っている。”マッハ11″で走ると半径2kmの窓は衝撃で割れるそうです。結論、走るなメロスだ!」——番組内では、こんな独自の視点で笑いを誘っていました。
確かに、大人になって読み返すと「勝手に親友を人質にするなよ……セリヌンティウスの扱い雑すぎないか?」など、ツッコミどころやユニークな要素が多い一冊です。
しかし、この「計算を度外視した猪突猛進さ」の中にこそ、打算で生きる私たち現代人の心を激しく揺さぶる強烈なメッセージが隠されています。
私たち人間は、「人を信じる」ことよりも、「人に騙されないよう疑って生きる」ことを当たり前にしている人が多いのではないでしょうか。
これは現代に限った話ではなく、歴史を振り返っても、人は信じた相手に裏切られ、傷つき、苦しい場面に追い込まれてきました。
社会に出れば出るほど、私たちは自然と心の盾を構え、「疑う方が賢い生き方だ」と思うようになります。
そんな現代の私たちにこそ読み返してほしいのが、太宰治の『走れメロス』です。
学校の教科書で誰もが一度は読んだ超有名作ですが、メロスとセリヌンティウスの真っ直ぐすぎるほど純粋な姿は、大人になった今だからこそ深く刺さります。
私🍏もこの本を開くたびに、人を信じる勇気と、真っ直ぐに生きる勇気をもらいます。今回は、人や社会を信じることに疲れてしまった人に向けた「心の処方箋」として、本作のあらすじと解説をお届けします。
『走れメロス』はこんな人にオススメ
- 職場の人間関係や不信感に悩んでいる人
- 「どうせ世界は裏切りで満ちている」と冷めてしまいそうな人
- 傷つくのが怖くて、人を信じる一歩が踏み出せない人
- 大人になってから純文学に再挑戦したい人
- 人を信じることに疲れた人
あらすじ
舞台は古代ギリシャ。
村の牧人メロスは、暴君ディオニスの圧政を知って激怒し、王を倒そうと王城に乗り込みます。しかし計画もなく単身で乗り込んだメロスは、当然のように捕らえられ、処刑を言い渡されます。
そこでメロスは王に頼みます。
「妹の結婚式があるから、3日間だけ待ってほしい。その間、親友のセリヌンティウスを身代わりに置いていく」と。
ディオニスは「どうせ戻ってこないだろう」と冷笑しながらも、人間不信を見せつけるためにこの提案を受け入れます。
こうしてメロスは、親友の命を背負って、村と王城のあいだを命がけで走ることになるのです。
メロスが直面する苦難と弱さ、そしてそれを超えて「人は信じ合える」と証明していく物語
メロスの魅力と、疾走する冒頭の文章
『走れメロス』は、「メロスは激怒した」というあまりにも有名な一文から始まります。
しかし、本当に注目してほしいのはその後に続く文章の 「テンポ」 です。
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。
読むたびに驚かされるのは、一文一文の短さです。
短い文章がリズミカルに重なることで、物語にスピード感が生まれ、王城へ向かって駆けていくメロスの姿が、自然と脳の中で再生されていきます。
私🍏は、この文体そのものが 「メロスという男の性格」 を表現していると感じています。
考える前に動いてしまう、後先を考えない、まっすぐで、少し抜けている――。
そんなメロスの人柄が、文章のリズムからにじみ出ているのです。
たとえばメロスは、暴君に激怒して王城に乗り込みますが、本人は「政治がわからぬ」と作中で語られている、ただの村の牧人です。
それなのに、正義感だけで王に突撃し、案の定捕まり、「別に殺されてもいい」と大口を叩く。
ところがその直後、「妹の結婚式があるから3日だけ待ってくれ。その間、親友のセリヌンティウスを人質にしておく」と言い出します。
正直、ここを大人として冷静に読むと、なかなかの理不尽です。
もし私🍏がセリヌンティウスの立場だったら、ラストの感動的な抱擁の前に、まず「勝手に人質にするな」と一言伝えていたかもしれません。
しかし、その勢いと不器用さも含めて、メロスは愛すべき主人公です。
短いテンポの文章の中に、メロスの破天荒で純粋な性格をそのまま映し出してみせる――
ここに、太宰治のうまさがあります。
人を信じる難しさと、それを超える美しさ
本作の最大のテーマは、やはり 「人を信じる美しさ」 です。
メロスは約束を守るために懸命に走り、セリヌンティウスは王にあざ笑われながらも、友を信じ続けます。
しかし太宰治は、二人を単なる「非の打ち所がない聖人」としては描きません。
たとえばメロスは、妹の結婚式があまりに幸せで、一度はセリヌンティウスのことを忘れかけ、「このまま村で幸せに暮らしてもいいのではないか」という甘い考えに揺れます。
出発したあとも、最初はのんきに歌を歌いながら歩いていきます。
その後、氾濫した川を泳ぎ、山賊に襲われ、満身創痍の末に体が動かなくなったとき、メロスはこんなことすら考え始めます。
「自分はここまで全力を尽くした。神も許してくれるだろう。セリヌンティウスは処刑されるかもしれないが、自分も後を追って死ねば裏切り者にはならない」と。
この極限状態でこそ見える 「弱くて泥臭い人間味」 があるからこそ、私たちはメロスを他人事だと思えなくなります。
そして、セリヌンティウス自身も、最後の名場面で告白するように、ほんの一瞬だけ、メロスを疑ってしまった瞬間があったと打ち明けます。
『走れメロス』は、ただ「信じることは美しい」と歌い上げるだけの作品ではありません。
人を信じ続けることがどれほど難しいか を、極限まで描き切っている作品です。
だからこそ、終盤のメロスのセリフが、私たちの心に深く突き刺さるのです。
街までたどり着いたメロスは、セリヌンティウスの弟子から「もう間に合わない、走るのをやめて命を大事にしてください」と止められます。
そのとき、メロスはこう叫びます。
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
最初、メロスは身代わりになってくれた セリヌンティウス個人 のために走っていました。
しかし物語の終盤、彼が走っている理由はそこを超えています。
「人は裏切り合うものだ」と冷え切った王と世間に対して、
「人間は信じ合える存在である」 という真実そのものを、自分の身体で証明するために走っているのです。
信頼は、信じられた側をも強くする
私🍏はこの場面を読むたびに、ひとつ強く思うことがあります。
それは、「信頼とは、相手のためだけに守るものではないのかもしれない」 ということです。
人は、誰かに信じてもらえたとき、その期待に応えたいと強く思います。
そして、その想いが、人を本来の力以上に走らせてくれることがあります。
メロスを最後まで走らせたのは、正義感だけではないはずです。
「セリヌンティウスが自分を信じている」という、その事実そのものが、極限のメロスを支え続けたのだと思います。
信頼は、信頼した(セリヌンティウス)側だけでなく、信頼された(メロス)側をも強くする力を持っている。
これは、『走れメロス』が私たちに教えてくれる、もう一つの大切な真実です。
ラストの、お互いに一発ずつ殴り合ってからの熱い抱擁、そして暴君ディオニスの改心は、大人の目で見れば「できすぎたハッピーエンド」に思えるかもしれません。
しかし、疑うことに慣れてしまった私たちの心を熱くし、純粋な気持ちを呼び覚ましてくれる、文学史上に残る最高の名シーンだと、私🍏は思っています。
最後に
今回は太宰治の「走れメロス」私🍏なりに解説、感想、あらすじを紹介してみました。
冒頭で、安住アナウンサーの「メロスはマッハ11で走っていた」という笑い話を紹介しましたが、ここまで読み解いてから改めて考えてみると、このあり得ないスピードこそが「信頼が人間に与えるエネルギーの凄まじさ」を表しているように思えてなりません。
社会の荒波に揉まれていくなかで、「人を信じる」ことは本当に難しく、リスクを伴うことのように感じます。それでも、この本を読み返すたびに、人は本来、お互いを信じ合える清く美しい存在なのだと、もう一度信じてみたくなります。
傷つくことを恐れて心の盾を構えそうになったとき。他人を信じることに疲れてしまったとき、今こそ太宰治の『走れメロス』を再読してみてください。人は、誰かに打算なく信じてもらったとき、自分の限界を超えて”マッハ11″で走れてしまう生き物なのかもしれません。
「疑う方が賢い」とされる現代社会で、その姿を思い出すだけで、凝り固まった心が、少しほぐれていくはずですので是非手にとって読んでみてください
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