「異邦人」 :カミュ[書評・感想]

読書

はじめに

「偽善者」という単語がある。意味を調べると

「外観だけの善を装う」「うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為」というような意味が出てくる。

この単語は悪い意味で使われることが多いではないのだろうか。

「A氏は偽善者だからな」と聞くとA氏と接する時にA氏の言葉を聞きながら(本心は何を考えているのだろうか)と思いを巡らせてしまうだろう。

さて、今回ご紹介する本はカミュの「異邦人」である。主人公であるムルソーが殺人を犯し、法廷で理由を問われ「それは太陽のせいだ」というセリフが有名なこの本。

この作品を読んだことのない人がこのセリフを聞いた時「このムルソーは頭おかしいのかな」という印象を抱くと思う。しかし、一度この本を読み、ムルソーという人間を知った時また違った印象を抱くに違いない。

ムルソーという人間について

「きょう、ママンが死んだ」という素晴らしい書き出しで始まるこの作品。

主人公であるムルソーは母親の葬儀に行く為に、仕事場の主人の休暇の願いを出す。休暇を取る事に対して不満顔の主人に彼は「私のせいではないんです」という言葉を発する。

冒頭から自身の肉親の母親が死んだのにも関わらず、動じてないというより、非常識なほどに冷静でありすぎ感情を持ってないような印象を読者に与える。

その一方で知り合いから黒いネクタイと腕章を借りる為に、「気が気じゃなかった。彼は数か月前に叔父をなくしたのだ」友人をいたわるような感情を仄めかす文章も出てくる。

母親を預けていた養老院へ着いた時、母親の顔を見るために棺のネジを取ろうとする門衛を止めたり、母親の年齢を知らなかったり、葬儀中に母親の友人が泣くところを見て驚いたりする。その後自宅に帰った翌日に喪に服さず海水浴へ行き、元同僚の女性と逢引を行う。

ではムルソーは母親と仲が悪かったのか、嫌いだったのか、それ違う。物語の終盤彼が牢屋に入れられている中、彼はママンが言っていたことを思い出す場面も出てくる。

彼の言動・行動だけを文字に起こした場合彼は他人から人間のクズとして見られるかもしれない。しかし彼の傍にいた人間はそのような印象を抱かない。

つまり、ムルソーは“演技ができない人間”という事である。彼は偽善者の対極にある人間だと言える。普通の人間であればたとえ母親に興味が無くても母親が死ねば悲しんでいる様子を周りにアピールするだろう。

人生はそうすることでスムーズに過ごせることが多い。ただムルソーはしない、というより出来ない。なぜなら彼が人生において最も大切にしているのは現在と自分の実の感情この二点だからである。

殺人の場面、太陽の意味

初めて読んだ時、正直何故ムルソーが殺人を犯したのか全く理解できなかった。

友人のレエモンに敵対心を持っていたアラビア人を結果的に殺害してしまうのだが、このアラビア人との衝突は殺害の場面以外に数回ある。

なかでも印象的なのが、レエモンが興奮してムルソーにピストルで撃とうとすると彼はまだ手を出してきていないアラビア人を撃ち殺すのは卑怯だと冷静に止める。

そんな彼がたまたま泉でアラビア人と遭遇して何も手を出してきていないアラビア人を撃ち殺害を犯す。

殺害の場面を引用すると

「太陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。あのときのように、特に額に痛みを感じ、ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光りに耐えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた」

母親の埋葬時も太陽が激しく照りつけながらも教会に行く為に歩いた。それと同じ太陽が出てきたからアラビア人と遭遇したさいも、後ろを向かず前を歩き続けたのだろうか。

太陽と聞くと希望だとかポジティブなイメージをわきやすいが、“太陽からのがれられないことも、わかっていた”という文章を目にするとムルソーにとっての太陽はどこか現状から押し出されるようなイメージを感じる。

裁判長に殺害を起こした動機を聞かれ自身がおかしいことを言っているという理解をしつつ「太陽のせいだ」という供述は、ムルソー自身も自分が殺害を犯した動機を理解出来てない為に出てきたセリフだと思う。

実際にかれは牢屋に入って自分が罪を犯して自由人でなくなって驚く。彼にとっては殺害行為そのもの重要なものでないのかもしれない。

嘘を持って演技が出来ない彼の法廷での口述は結果的に自分を不利な状況へ追い込むものでしかなく、彼の心は周りの陪審員にが理解されず、結果的に彼は斬首刑となってしまう。

異邦人

異邦人の意味は見知らぬ人、外国人、別の地域から来た人、またユダヤ人が非ユダヤ教徒、特にキリスト教徒を呼んだ言葉。どこか蔑称的な意味も感じさせるこの言葉。

他人の顔、社会的体裁を全く気にせず自分の真理をだけを大切にして生きるムルソーは斬首刑の独房に訪ねてきた司祭に懺悔を求められ憤怒する。

自分の感情を偽り、自分の感情と異なった行動、言動をするというのは現代社会でスムーズに生きていく為に誰もがしている。もはや必須科目ともいえる。皆がそれを当たり前だと理解したうえで生活をしているので、我々はその人の実際に喋っている言葉と、その胸中同時に二つを理解しようとする。それが全くできないムルソーは周りからみたら“異邦人”とみられるのと同時に理解されないのも、仕方ない気がする。

シェイクスピアの代表作「ハムレット」でオフィーリヤという女性が出てくる。ハムレットの作品上では欺瞞や騙しあいが横行する。登場人物たちが演技をしているが、ただこのオフィーリヤだけが演技ができない人物として描かれており、読み返す度に彼女が非常に魅力的な人物にみえる。

このムルソーもオフィーリヤと同様演技ができない。

そして皮肉にもムルソーもオフィーリヤも非業の死をとげる。

とすると現代で生きていく為には偽善や一定の演技力が求められるのは間違いない。

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