「金閣寺」 三島由紀夫:[感想]

読書

はじめに

今回は1956年に書かれた三島由紀夫の「金閣寺」について書きたいと思う。

「金閣寺」は昭和25年の起きた寺僧による金閣寺放火事件を題材にした作品で、一人称で描かれた作品である。あくまでも事件のみを題材にしており、登場する人物達は三島由紀夫が創作したものである。そして登場する人物達の異常なまでに屈折した性格は人間の持つ感情の複雑さ、恐ろしさが見て取れる。そしてそれら屈折した各登場人物の思想・哲学は三島由紀夫の文体により生々しい説得力を持ち、読者はこの異様ともいえる物語にひきつけられていく。

決して明るく楽しい物語ではないし、読んでいて楽しい場面もないし、内容も難解で読みやすくもない。もし自分の子供の書棚にこの本があったらもっと明るい本を読めと注意するかもしれない。しかしながら私🍏自身学生時代に初めてこの本を手にした時その内容に度肝を抜かされたし、その衝撃は今でも憶えている。

今回はそんな金閣寺について序盤・中盤・終盤に分けて書いていきたいと思う。

  • 幼時~鶴川との出会い
  • 敗戦~柏木との出会いと鶴川の死
  • 出奔~金閣寺放火

幼時~鶴川との出会い

  • 「冒頭の美」

冒頭でも書いた通り「金閣寺」は読みやすい作品とは言い難いし、内容も複雑でテーマもいくつも散りばめられており、読者によって様々な解釈、様々な読み方、が出来ると思う。

それでも多くの人がこの作品のテーマといえばまず「美」というキーワードを挙げるのではないだろうか。そしてこの「美」が、物語が進むにつれ変化していくのも見どころの一つである。

「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」この文章で「金閣寺」は始まる。

小さい頃から金閣ほど美しいものはないと教えられた主人公の溝口は自身の心に金閣を描き、実際に金閣寺を見たことがないのにも関わらず、自身の中に途方もない金閣寺を創りだし美しいものを見れば「金閣のように美しい」とまで表現するようになる。

しかし、実際に父に連れられ金閣寺を見る機会を得た溝口は

「何の感動も起こらなかった。それは黒ずんだ小っぽけな三階建てにすぎなかった・・・(略)美というものは、こんなにも美しくないものだろうか、と私は考えた。」

しかし彼は京都から安岡へ帰ったのちに、金閣を思い出し、やはり金閣がこの世で一番美しいという手紙を父に書いている。

いっけん溝口の心情に疑問が抱く場面だが

小さい頃寝られないくらい楽しみにしていた観光地・映画・食べ物・旅行も実際に行ってみて、見てみるとそうでもなかったという経験は一度くらいあると思う。そしてこのエピソードを紹介するうで欠かせないのが主人公溝口の性格である。

溝口は体が貧弱で運動は苦手、そして生まれつき吃音持ちで周りと馴染めず内気で暗い性格。周りに吃りを馬鹿にされ外界と馴染めない彼の性格は屈折していき、誰にも理解されないという事が自分の誇りであるとし、吃りを馬鹿にしてくる教師、学友を処刑するという空想を楽しみ、実は自分は選ばれた人間で未来には何か特別な使命が待っていると空想していたのである。

このようなコンプレックスと性格は彼をより内向的にさせさらに屈折させていく。そして誰からも理解されず、醜い生き物がゆえに美しいものへのこだわりが彼の中で益々大きくなっていく。吃りで外界とうまくコミュニケーションが取れない彼は人並み以上に脳内で

自分の世界観を拡げていく癖があり、彼の中で創られた金閣寺というのは途方もなく大きな物になっていたように思う。そのような内向的で妄想癖の強い彼は最初金閣寺を見た時なんの感動も覚えなかったが、一度かえって冷静に思い返し脳内で金閣寺を思い出し、彼の中で再び金閣寺は輝きだしたのである。

  • 「鶴川との出会い」

彼は父親の友人で金閣寺の住職をしている田山老師のもとに引き取られる。

そこで彼は同級生の鶴川に出会う。今まで彼は周りから吃り馬鹿にされ、笑われてきた為に世界を屈折して見てきたが、鶴川は彼の吃りをからかおうとせず普通に接する。彼は鶴川が自分の暗い感情を明るいものに翻訳してくれる存在だと思うようになり、幼少期から誰からも理解されず、疎外されてきた彼は初めて友人というものを得る。

敗戦~柏木との出会いと鶴川の死

  • 「中盤の美」

「金閣寺」に限らず文学作品を読む上で時代背景というのは作品を読み解く上で大切な要素になる事が多いが、特にこの「金閣寺」は第二次世界大戦中というのが大きなポイントになってきており、作中でも「戦争」というキーワードが多く出てくる。そして溝口のなかで戦時中の金閣はまた違った様相をなすのである。

「この世に私と金閣との共通の危難のあることが私をはげました。美と私とを結ぶ媒立ちがみつかったのだ。私を拒絶し、私を疎外しているように思われたものとの間に、橋が懸けられた私は感じた。私を焼き亡ぼす火は金閣をも亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせた」彼は自身を醜い存在だと思い、それゆえに彼は美に対して強い憧れを抱いてきた。憧れの美と自分は遠くかけ離れた存在だと思っていたが、戦争により彼と金閣(美)同等となったと考え、それは彼の中で美に初めて近づき初めて美と一体感を得たような感覚を抱きそれに酔ったのである。

  • 「敗戦」

戦争を体験していない私は戦争がどんなに悲惨なのかを知ることができない。ただ一つ確かなのはこれまでの価値観は崩壊し「新しい時代」「新しい価値観」がそこには生まれるという事である。ではこの作品の主人公溝口にとって敗戦とはなんだったのか

戦争のお陰で彼は金閣に近づきその感覚に酔ったが、敗戦により京都が空襲を受ける可能性はなくなった。つまり金閣と彼にかけられた橋は終戦により崩壊したのである。

足利義満によって建てられた金閣寺は焼かれることなく未来永劫ここに存在することになったのである。終戦後かれは金閣をみて「金閣がこれほど堅固な美を示したことはなかった!あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどまでに輝いたことはなかった。」

そして金閣(美)と自分は同じ世界に住んでいるという夢想は崩れそれに絶望するのである。

戦争が終わり、燈火管制が説かれた京都の夜景を見て溝口はこう思う。

「これが俗世だ」「戦争がおわって、この灯の下で顔を見つめ合い、もうすぐ前に迫った、死のような行為の匂いを嗅いでいる。この無数の灯が、悉く邪まな灯だと思うと、私の心は慰められる。どうぞわが心の中の邪悪が、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、このおびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますように!それを包む私の心の暗黒が、この無数の灯を包む夜の暗黒と等しくなりますように!」

戦争・終戦を通して彼の中での内奥の悪が大きくなり「悪は可能であるか」という思想が大きくなっていく。

  • 柏木との出会いと鶴川の死

戦争が終わり溝口は鶴川と一緒に大谷大学へ入学する。内向的な彼は友達が出来ず孤独な学生生活を送っていた。そこで内翻足の柏木という男に話しかける。柏木は溝口が吃音と内翻足という片輪で仲間意識を持って話しかけてきたのだろうと見破り

「君は俺に比べて自分の吃りを、そんなに大事だと思っているのか。君は自分を大事にしすぎている。だから自分と一緒に、自分の吃るも大事にしすぎているんじゃないか」「吃れ!吃れ!」という言葉をあびせる。

作品を通して柏木の毒のあるセリフ、奇矯な哲学はあまりにも道徳性に反し、読んでいて怖くなる。

彼の性格を象徴するセリフに

「人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。俺たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは決してそんな時ではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね」

この柏木と鶴川。この陽と陰が溝口に異なった影響を与え続ける。

吃りを馬鹿にされ、外界とうまく馴染めない彼は鶴川と出会い初めて外界と自分を繋いでくれる人物と出会う、一方柏木は裏側から人生に達する抜け道をかれに提示する。

そんな中彼にとって陽である鶴川が交通事故により他界し、彼にとって陽の人生は閉ざされ、破滅へと向かっていく。

出奔~金閣寺放火

  • 「終盤の美」

この「金閣寺」は美というのが大きなテーマとして描かれているが中盤までは美(金閣)というのは溝口にとって美とはあまりにも尊いもので、彼は美(金閣)に近づこうとすると、美(金閣)はそれを拒絶し彼は満たされることのない美への強い憧れの気持ちを幼少の頃から抱いていた。しかし終盤になるとこの考えが一変する。

彼は柏木と一緒生活していく中で女性と関係をもつようになる場面がある。

しかし関係を持とうとするその瞬間彼の目の前に金閣が出現し彼の邪魔をし、女性と関係を持つことが出来ず、彼は邪魔をする金閣を呪うようになる。

ここがこの「金閣寺」のなかで一番難解で、中には笑ってしまう人もいるのではないだろうか。

「又もや私は人生から隔てられた」「金閣はどうして私を護ろうとする?頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする?なるほど金閣は、私を堕地獄から救っているのかもしれない。そうすることによって金閣は私を、地獄に堕ちた人間よりももっと悪い者、『誰よりも地獄の消息に通じた男』にしてくれるのだ」

周りから誰にも理解されず、そのため性格は歪み、誰かと関係を持とうとすると、自分が作り上げた美が出現し、それが邪魔をする男の独白である。そして彼は

「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」というこれまでとは全く異なる気持ちを金閣に抱きそして放火を実行する。

まとめ

今回三島由紀夫の「金閣寺」について書いてみた。正直「金閣寺」で取り上げるべきテーマやエピソード、「認識と行動について」「コンプレックスについて」「溝口にとっての父親とは」「柏木と鶴川について」等々魅力、掘り下げて考えられる点はまだまだある。この「金閣寺」、読みにくいい小説だが是非この機会に興味を持ち、出来れば若いうちに一度これを手に取って読んでみてほしい。自分は誰からも理解されないのではないのか、という若くて多感な時期に抱きやすいこの感情をもっている時期に是非読んでほしい。

私🍏はこの作品を読み直す度に溝口の人生について考える。彼は幼少の頃から人生に拒絶され、それが影響し自分の中でとほうもない美を創る。そしてその大きな美によって彼の人生は振り回され最後は破滅へとむかう。作品の最期で彼は金閣を燃やすが最初の計画では放火したあと自殺をする予定だったが結局薬と小刀を捨てタバコを一服する。

そしてこの物語は

「一仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」

という文章で終わる。初めて溝口が人生に対し前向きに向き合っているセリフである。彼は美に対し余りにも固執し、それが原因で自分の人生を誤ったのかもしれない。金閣を焼くことでかれはその呪縛を解き新しい人生へと踏み出し「生きよう」と思ったのはないだろうか。

幼少の頃から誰からも理解されないことを誇りにしてきた彼だからこそ人並み以上に人生を求めたのかもしれません。

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