「竜馬がゆく」: 司馬遼太郎[書評・感想]

読書

はじめに

世界で1番発行部数の多い本は聖書(バイブル)である。いままでに何百億~何千億という数が発行されているらしい。キリスト教の文化が比較的薄い日本においては実感がないが、この聖書に影響を受け、生き方・考えかた・審美感に影響を及ぼした人は数えきれない。

さて,読書量の多寡はあれど皆がそれぞれのバイブル(一番自分に影響を与えた本)というのはお持ちではないだろうか。それが幼稚園で読んだ絵本、小学校で読んだ学級文庫かもしれない、その人にとってのバイブルというのは必ず存在すると考えている。

読書家である私🍏にとってのバイブルは「竜馬がゆく」である。

龍馬との出会いは小学6年生の頃父親👔の書棚にあった竜馬がゆくを手にとったのが初めての出会いで、その頃から私🍏にとってずっと憧れの男として常に坂本龍馬がいた。

多感の時期に読んだのも影響しているが僕🍏の生き方・考え方・審美感はこの本に大きく影響を受けている。

そして人生の分岐点・転換期・悩んだ時・何度も読み返してきた竜馬がゆく。

そのたびに新しい事や、自分が人生において何を大切にするのかを改めて教えてくれるまさに僕🍏のバイブルである。

今回はそんな私🍏にとってのバイブルについて書きたいと思う。

しかしながら、この単行本8冊にも及ぶ長い物語について書こうとすると正直何から書いていいのか分からない。

龍馬の人柄についてや、幕末の時代とそのおもしろさ、について書こうとすると途方もない作業になるように思う。

それほど幕末という時代は魅力的で、その動乱の時代を駆け抜けた龍馬の生涯は面白い、カッコいい。

司馬遼太郎はこの作品を通して事をなす人間の条件というものを考えたかったと述べている。

なので今回私🍏なりにバイブルを通して「事をなす人間の条件」というもの考えていきたいと思う。

さらにこのバイブルを読みながら私🍏なりに思うことを書いていきたいと思う。

事をなす人間の条件①

この物語は封建制が強い江戸時代において土佐の次男坊が日本をひっくり返す。彼の言葉を借りるなら日本を洗濯する。

剣術を学びに19歳で土佐を飛び出し、剣術に明け暮れる青春時代を過ごした後に師匠ともいえる幕臣の勝海舟と出会い外国・海軍について学び、そこから海援隊の結成、薩長同盟、大政奉還と日本を新たに作り変える龍馬。頼朝以来の700年の武家政治に終止符を打ち日本という統一国家の形成、までにいたった龍馬の功績は大きい。

幕末の魅力の1つに事をなすことの出来る人材が多く出てきたという点である。

日本という国はまことに面白い。この動乱の幕末において多くの魅力的な人物が出てきているという奇跡、幸運がなければ今の日本はなかったといえる。もし統一国家の形成が少し遅れたら列強達に食われてしまったのは間違いない。

この作品では、龍馬以外の魅力的な志士も多く登場し、元新聞記者の司馬遼太郎が変態的ともいえるくらいの緻密な取材、資料収集を行い彼らの人生がえがかれている。

司馬遼太郎の書き方の癖として「余談だが・・・」というのがある。この「余談だが・・・」の後はだいたい新たに登場した志士たちがどんな人生を歩んできたのかを述べている文章が続くことが多い。

そのため基本的に「余談だが・・・」という文字が文章で出てくると物語は一時停止し、“余談“が始まる。慣れない人は物語が中々進まないという彼の筆癖に辟易するかもしれない。しかしながらこの癖こそがこの名作を名作たらしめている。

なぜか、それは先ほど述べた通りこの時代には面白い人材が出てきているために、余談で物語の展開を止めても良いくらい「余談だが・・・」の1つ1つのエピソードが総じて面白い。

最終巻の8巻までに無数の志士たちを紹介してきた司馬遼太郎。ここで彼が最終巻の8巻で土佐藩大観察の佐々木三四郎が登場し、ここでも例にもれず多くの紙数を割きながら彼を紹介した文章が興深かった為に抜粋したい。

「筆者は、佐々木三四郎の人柄に1種の悪意を感じているらしい。書きながら、そのように気づいてきた。実はこの男は、他人に悪意をもたれるような人物ではない。およそそうでないところに佐々木三四郎という立身出世型の官僚の特質がある。

ただ、この長い物語は、無数の傾斜した性格をもつ人物群をえがくことによってここまで進んできた。圭角のある、傾いた、どこかに致命的な破綻のある人物が無数に登場してきた。すべての登場人物がそうであったといってもよい。それらの男どもは、圭角と傾斜と破綻があるがゆえにいつも自分の真実をむき出してきたのか、それとも自分の真実を剝きだしてしまっているがために圭角ができ、傾斜ができ、破綻ができたのかその相関関係はよくわからない。

ただ安静以来、日本史上最大の混乱のなかで奔走してきたこれらの型の男どもは、その圭角と傾斜と破綻と、そして露わにむき出した真実のために非業のなかで死んだ。」

動乱の世において事をなす人間というのは上記のように、圭角と傾斜と破綻 が必要なのかもしれない。

逆に泰平の世に生まれていれば、彼らは変人として周りから白い目でみられ、歴史上に名を残すことなくその生涯を終えただろう。

事をなす人の条件②

幕末という動乱の時代はペリーの来航から始まる。この事件を契機に国は2つに割れる。攘夷か開国か。

この統一国家を形成するまでに、頼朝以来の武家政治に終止符を打つために多くの若者が斃れた。

池田屋事件、蛤御門の変、寺田屋事件、事件をあげたらきりがないし、血気盛んな若者が狂信的に攘夷を訴え、外国にたいする知識も無いのに日本刀の切れ味を異人に食らわせてやると息巻いている。また京では新選組・見廻組によって多くの志士が斃れた。

そんな時代背景のなかで起るべくして起きた生麦事件と薩英戦争。武士道を理解していなかった外国人が薩摩藩士に切られ、そのまま英国と薩摩は薩英戦争をひきおこしてしまう。列強を代表する国と一介の藩が戦って勝てるはずもなく薩摩藩は最新鋭の武器になすすべなく敗れてしまう。

しかし薩摩は学ぶ。「日本刀では列強に勝てない」そこから逆に薩摩は英国に近づき西洋の軍事ノウハウを学び、攘夷から倒幕へと考えを変えていく。

まさにこの柔軟性が薩摩藩が幕末から明治政府の藩閥政治にいたるまでの影響をもてた大きな要因だろう。

柔軟性でいうと、この物語の主人公である龍馬は攘夷の考えを持っていたが師匠の勝海舟と出会い外国の知識を増やしていく中でに日本が他国と比べひどく小さく、経済的・技術的に遅れている事を知り攘夷ではなく開国論者になっていく。

ダーウィンの進化論の中に「この世に生き残る生物は、最も強いものではなく、最も知性の高いものでもなく、最も変化に対応できるものである」という有名な言葉があるが、時世・時運・世論これを読み取り変化できるものが事をなせるのだろう。

竜馬ががゆくを読んで考えること

尊王攘夷の初期・中期の狂信的な動きから反省ししっかり現実を知り、学んでいく幕末志士。

私🍏はこの本を読み返す度に「日本・日本人とはなんぞや」と考える。

時代はずれるが明治の日露戦争をえがいた司馬遼太郎の「坂の上の雲」。NHKでドラマ化されてオープニングに司馬良太郎の文章を渡辺謙がナレーションをいれている。

「まことに小さな国が,開化期を迎えようとしている。「小さな」といえば,明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく,人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは,日本史上の最初の体験者として,その新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ,この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の,どういう家の子でも,ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば,博士にも,官吏にも,軍人にも,教師にも成り得た。この時代の明るさは,こういう楽天主義から来ている。今から思えば,実に滑稽なことに,コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は,ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした、陸軍も同様である。財政の成り立つはずがない。が,ともかくも近代国家を作り上げようというのは,元々維新成立の大目的であったし,維新後の新国民の少年のような希望であった。この物語は,その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し,どのように振舞ったかという物語である。」

渡辺謙のナレーションの抑揚が素晴らしいのもあり非常に血がたぎるオープニングだが、この文章に当時の日本人の良さが詰まっている気がする。日本人は新しい国民、国家としてその新鮮さに少年のように 痛々しいばかりに昂揚したのである。

こんにちの恵まれた日本という国が出来るまでに多くの若者が非業の死に斃れている。幕末、明治だけでない、第一次・二次世界大戦もそうである。

「こんにちの日本は誰の何の犠牲のもとにたっているのか」

恵まれた”日本人”として生命をもらったからには知っていたほうが良いのではないかと思う。なにも日本の為に頑張れとか、お国の為に身を費やせとはいわないが、こんにちの日本が出来るまで自分より若い多くの若者が志半ばで斃れている。

彼等にはやむを得ない時代背景・時世・世論、などがあれど、国の為に身を費やした彼らに感謝して日々を生きるべきだと思う。

選挙・政治に興味を持たなくなった若者たち。

選挙に勝つために若者向けでなく、高齢者向けの政策を声高に叫ぶ政治家。

悪循環でさらに加速する少子高齢化。


大先輩の築きあげたかった日本はこんな日本ではないはずである。

おわりに

1990年前後に生まれた私🍏の同年代の人たちはおそらく、生まれてから「痛々しいばかりの昂揚」を肌で感じたことが無いだろう。同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災、コロナウイルス。

「昂揚」とは程遠い、あったのは「絶望」「暗鬱」である。親からはバブル時代の”昂揚”話しを聞かされる。「あの時はよかった」と酒を飲みながらこぼす彼等のセリフに我々は強い嫉妬を覚えた。

幕末の動乱期と比べれば天国みたいな泰平の時代である。だが、昂揚はない。どこかさめている。

未来に対しひどく不透明であったこの30年は「失われた20年」ではなく「失われた30年」とも言われ始めている。

最近気づいたのだが、竜馬がゆくを読み先輩達の人生を知り、自身が感じたことのない 痛々しいばかりの昂揚の疑似体験をしているのかもしれない。

多くの大先輩の犠牲のもとに、こんにちの民主主義、資本主義が成立までに至っているのは理解している。

ただ、この30年間の日本をみてきて本当にこのままでいいのだろうか、もう制度そのものに限界がきているのでは?と考えてしまう。

もし、今一度この日本を洗濯することの出来る人間が現れるのならどう洗濯するのだろうか。

生涯に一度くらいは「痛々しい昂揚」を感じたいものである。

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