「禅」日本文化を考える上で一度は読むべき名著:鈴木大拙[あらすじ][解説][感想]

読書

はじめに

今回は鈴木大拙の作品について書きたいと思う。修行を行っていない私達からしたら少々難解な所もあるが、禅について学ぶと禅という哲学が日本人の価値観・日本文化形成において非常に強い

影響を与えてきたという事が分かる。宗教や仏教に興味関心がない人でも禅について学ぶことで生きる目的や自分が大切にすべきもの、日本人について考え直す時間を

手にすることができると思う。禅という約2500年前に始まったこの哲学について浅学な私🍏が書くのは恥ずかしい所もあるが、今回鈴木大拙の著書を読み私🍏なりに思ったことや

考えたことを書きたいと思う。

禅について

そもそも禅とはなにか。他の宗教とどう違うのか、まずは鈴木大拙の二つ文章を引用したい

「禅は洞察によって心の本性に達し、心そのものを見出し、自ら心の主となる事を目的とする。この心または精神の真性に到達することが禅仏教の根本目的であるのである」[禅学入門]

「禅は科学、または科学的の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、化学は非体験的である」[禅と日本文化]

鈴木氏の本を数冊よみ禅について学んでいるとこのような文章がいくつか出てくる。禅というのは体験的であり、自分の精神の真性を追い求め、自らが自らの魂を征服し、主人公となる。

つまり、禅について本気で学ぶ為には単に書物で読んだとか、誰かから聞いて学ぶだけでは不可能だということである。

蜜を舐めたことがない人間に、蜜はどのように甘いのかを教えることはできない。自らの舌で体験する以外にその甘さを知ることはできない。

そして禅を体験しその最終目的は自らの魂とは何か、つまり本当の自分とは何者なのかを知る事だと。

そしてその体験は決して楽ではない、他の宗教と大きく違う所はよりどころとするところがないということである。

例えばキリスト教では罪を犯してしまった場合神へ罪を告白し、ゆるし得たり、悔い改めたりする。

その他の宗教でも神を崇め、神をよりどころとして生きていく考えがみられるように思う。

しかし、禅にはよりどころとする神みたいなものは存在しない。

強いて言えば禅においてよりどころというのは、自分自身なのかもしれない。

その点が他の宗教と大きく異なり、禅の厳しさの特徴のようにおもう。

禅と日本人

中国では禅匠の言葉は恐るべき猛毒で、それを聞く弟子からしたら内臓を9転させるほどの激痛を起こす。そしてこの苦痛に耐えられた者ののみが内なる不純物が一掃され、新しい人生観をもって生まれ変わるといわれている。

それはまるで獅子が幼い子供を崖から落とし、這い上がることができた子供のみ育てるといった所が禅にはあるのかもしれない。

こういう所をみると禅が侍の間で広く受け入れられたのも理解できる。

禅を日本に広めた最初の僧侶は栄西と言われており、当時の京都は旧仏教の本拠で、かれは京都ではなく鎌倉に居を構えていた北条氏のもとで禅を広めた。

鈴木氏は著書で日本武士の間で広く禅が受け入れられたのは、禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的で戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致するためだったと書いている。

武士道と禅では共鳴する所がおおくあり、13世紀の北条家から江戸時代にいたるまで多くの武士が禅の道に入りそこで精神を高めてきた。

武士道には辞世の句、切腹という考えが存在する。古来日本人は死にかんしてグズグズするのを嫌ってきた。死を目前にした時だからこそ

ひと呼吸おいて冷静に余裕を持ち辞世の句をしたためるのである。武士は日頃から死を覚悟し、死の局面に立った時こそ冷静に、そして桜のように潔く死ぬというのを美徳してきたのである。

禅も生や死にこだわらない、禅は体験の哲学で一度決めたら振り返らず行動することを欲する。

このように聞くと武士だけの話のように聞こえるが、この考えは庶民の間でも浸透し、世界大戦中の様々な場面でそれが証明されている。

現代の感覚だと理解はできないかもしれないが、それでも私達が普段読んでいる本、漫画、映画、アニメで人気なキャラクターは自分の損得勘定を度外視して仲間の為、組織の為に潔く自らを犠牲にする姿は私達を感動させる。

このようなキャラクターをみて感動するのは、現代の私達にも禅の考え、武士道の考えが残っている所以かもしれない。

禅の生活(侘び、寂び)

日本では古来より侘び、寂びという言葉が有る。鈴木大拙はこの侘び、の真意を「貧困」、つまり「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」という事と定義している。

現代社会では富や名声を欲する人がより多いように思うが、そうではなく時代の流れを超えたなにか特別な価値観の存在を感じそれを大切にして生きていくという考え方が侘び、なのである。

誰もいない山奥の小さな丸太小屋で2,3畳の部屋で寝起きして裏の畑で野菜を育て、質素な食事を摂り、夜は静かな雨の音に耳を傾けながら寝る。これが侘び、寂びであり貧困なのである。

そしてこのような考え方を受け入れて生活していくと西洋主義・個人主義的な考えが薄れ、報酬無き行為を行うことが出来るようになる。欲が無くなり、他人との比較もなくなり、雲が漂うかのように

静かに生きることが出来る。ドイツの神秘主義者タウラーは「誰がお前に借りがあるか、またお前に対して何か負うところがあるか、そんなことを全く忘れることだ。死という旅行の最期に来ると、吾らは何もかも忘れるがそのように忘れることだ」と言いこのような考え方を「貧困」と定義している。

現代の感覚では少し時世遅れだと思うがどの時代でも、目の前の欲を忘れ他人の為に報酬無き行動を行うのは美しい人間の行動であるように思う。

禅(無分別)

鈴木大拙は禅の思想を、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別と言っている。特にこの無分別という言葉は多くの本で紹介している。

無分別、つまり区別をしないというのは禅の思想をとらえる時に重要な言葉ではないかと思う。

中国の列子の言葉に

「吾は始め何でも心の思うままに勝手に考えた。口ではまた何でも喋舌った。それから『此』が自分なのか、『此でない』のが他人なのかというそんな分別もなくなった。これが自分の損なのか他人の得なのかそれも忘れた、自分の先生は誰であり、自分の友達は誰であるかも忘れた。私は内も外も、徹底して変化を覚えた。それからというものは、目が耳のようになり、耳が鼻に、鼻が口になった。この同一性は至る所に実現して来た。心が一つに集中すると形態は融け去った。骨も肉も解消した。・・・(中略)自分はただ風のように、東へ西へと動いた、枝を木の葉のように。自分は風に乗っているのか、風が自分にのっているのか分からなくなった」

これはまさに無分別を表した言葉だと思う。

禅は「こだわり」・「しがらみ」・「欲」というもの忘れさせ、そして自我を忘れさせ無意識になったときに本当の自分を見出す。

現代社会でこのような無分別の考えを養うのは難しい。日々数字と時間に追われ、他人比較し争い、自分の煩悩と戦うことを強いられている。

自分の身も心も投げ出し無の境地にたった時、解脱が起こり、禅は人を新境地へと導く。

貯金金額を増やしたい最適な方法は資産運用や副業について学ぶことではなく、自分の口座の貯金金額を忘れることが重要なのである。

理解できない人は中島敦の「名人伝」を読むことを勧める。これもまさに無分別を表現した本で、弓の道を極めたいと思った若者が様々な達人を訪ね、様々な過酷な修行を行う。

そして彼は最終的に誰もが認める弓の達人となる。自分が若い頃志した夢が叶ったのである。しかし道を極めた彼は最終的に弓という存在そのものを忘れる。

人間という動物は常に何かを意識してしまう動物で、何も意識しないというのは難しい。しかし思考を止め、欲を忘れ無意識になるという事が結果的に一番の近道なのである。

禅の修行

禅は生活全てが修行である。

禅を志した若者が名高い僧のもとで修行を行っていた。若い僧は師から何か他にはない特別な修行方法を教えてくれるものばかりと期待していたが実際は師の身の回りのお世話ばかり。若い僧はこの雑用ばかりに嫌気がさし

師にもっと禅の秘密を教えてくれと懇願する。すると師はこう答える「禅はなにも秘密はない。いっさいが開かれ、いっさいが全体のまま与えられている。・・・(中略)お前はこの上なにが欲しいのだ。

朝起きたとき、お前はわしのところにやってきてお早うございますと挨拶をする、わしが挨拶を返す。朝飯時になれば、お前はわしの粥を運んでくる。わしはそれを喫して礼をいう。お斎のときにはお前は菜を添えて飯をわしにすすめる。わしは悦んでそれを食う。寝る時刻になれば、お前はまた入ってきて、お休みなさいといい、わしもお休みといって挨拶に応える。早朝よりお前の出会うことはみなこれ、わしから禅をまなぶ機会じゃ。これ以上禅の秘密なぞとなにを知りたいのだ、秘密があるとすれば、それはお前にあってわしにはない。」

この若い僧と師との会話が全てである。禅は挨拶から飯の配膳、掃除の生活全てが禅の修行で、それら全てが悟りへの道に通ずるのである。

若い僧と師との違いは雑念の有無ではないかと思う。恐らく若い僧は飯の配膳をしながら師への不満や、将来への焦りなどを考えていたに違いない。一方で師は挨拶に応える時は挨拶のみを考え、食べる時には食べる事だけを考え

無心で今の生活を送っているのだと思う。

一生懸命食べて一生懸命掃除して一生懸命寝る。ただ無心でそのことだけを考えて生活する、そこに悟りの道が有るのかもしれない。

現代の生活では刺激が多く、なにかと焦りながら生活を余儀なくされて精神が病んでしまう人が多いように思う。禅の考えを学び精神が昂揚してしまいそうな時だからこそ、一つ一つそのことだけを考え焦らず受け入れ行動する精神を養っていくべきかもしれない。それには日々の何気ない日常さへも自分を高める修行だと考え、一つ一つ丁寧にこなすことが大事なのである。

さいごに

今回、鈴木大拙の本について書いた。冒頭にも書いた通り禅は体験を尊重する哲学なので、禅寺で修行をしたことがない私🍏は禅について何か述べるような資格は持ち合わせていない。

しかし、鈴木大拙の本に出会いそこから毎朝15分間だけ座禅を組むようになった。すると今まで理解できなかった鈴木大拙の言葉も少しずつではあるが体で理解できるようになったように思う。

座禅をしたからといって誰かから賞賛される訳でも、年収が上がるわけでもない。しかし、人生において足の踏み場もないほどに転がっている小さなしがらみを気にしなくなったように思う。

水が半分はいっているコップをみて、ネガティブな人はもう半分しか入っていないのかと落ち込む、ポジティブな人はまだ半分も入っていると歓喜する。座禅を行い禅の思想を理解した人間はそもそも水に関心が無くなる。

世界的にもいま注目されている禅。禅の文化が残っている日本に生まれたからには時間をとって禅について学んでみるのも悪くはないと思う。

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